井倉洞
縦に縦に細長く
井倉洞は、井倉峡の高さ約240の屏風嶽に開口している鍾乳洞で、目の前を流れる高梁川の川面から約5mのところに入口があります。入口は水の吐き出し口で、洞内をさかのぼりながら見学するようになっています。(洞内を流れる水は、人口滝から一部排出している)
総延長は1200m。これは人口トンネルと合わせた長さで、天然洞部分は約420mです。
洞内には地下河川が流れ、高さ約50mの「地軸の滝(三段の地下瀑布群)」があるのが特徴です。ここから見えてくるのは、井倉洞が「地下水だけ」でできたというより、高梁川による峡谷形成と一体になって発達した洞窟だということです。
井倉洞は、高度差90mという非常に大きな落差があります。これは、洞窟形成時に地下水が「横」よりも「縦方向」に強く流れていたことを示しています。
石灰岩にはもともと割れ目(節理)が多くあります。
そこへ雨水が入り込み、石灰岩を溶かしながら地下へ落ちていくことで、縦方向の通路が拡大していきます。
また、井倉洞の前には高梁川が流れています。そして井倉峡は、高梁川が石灰岩台地を深く削り込んで形成した峡谷です。
川が谷を深く掘り下げると、地下水の出口の高さも次第に下がっていきます。すると地下水は、「もっと低い場所へ流れよう」として、新しい通路を下へ下へと作っていきます。
このため井倉洞では、通路が段階的に形成され、結果として大きな高低差を持つ縦長洞窟になったと考えられます。

井倉洞は、昭和38(1963)年、4月12日に岡山県の天然記念物に指定されました。
井倉洞形成の過程(イメージ)




※上記イラスト(©羅生門ガイド)はイメージであって、実際の井倉洞内とは異なります。
井倉洞はいつ発見された?
井倉洞は、1957(昭和32)年ごろ、大理石※1採掘の調査中に発見されました。翌1958年、新見市などが本格調査を実施し、約100m奥まで到達しました。その美しさから、
「これは観光資源になる」
と判断され、急速に整備計画が進みます。
1959年に最初の観光洞が開洞し、見学できたのは現在の「地軸の滝」まででした。その後も探査と工事が続き、1962年に現在の約1200mのルートが完成しています。ただし、現在の洞口まで行く橋は、観光地として整備された後に建設されたものです。
つまり昭和30年代初頭、調査隊や地元の人々は、
高梁川の河原まで歩く→
小舟で対岸へ渡る→
石灰岩の絶壁の麓を登る→
洞口へ向かう
という、今では想像できないような方法で出入りしていました。

※1 石灰岩を大理石にするのは「マグマの熱」
石灰岩がマグマの熱で温められると、中にある炭酸カルシウムの粒が大きくパズルのようにガッチリ組み合わさり、磨くとキラキラと輝く「方解石(ほうかいせき)」という大きな結晶へと成長します。この、熱によって結晶が大きく育った状態の岩石を、「結晶質石灰岩(けっしょうしつせっかいがん)」、一般的な名前で「大理石」と呼びます。「大理石」とは、中国の「大理」という地域で採れた美しい石から名付けられたものです。
総落差50mをもつ三段の地下瀑布群「地軸の滝」
井倉洞の公式サイトや観光案内では、「地軸の滝は落差約50m」と紹介されています。しかし、これは一般向けの分かりやすい表現です。
実際は、落差約30mの地軸の滝を主瀑とし、二の滝(約15m)、六合目の滝(約5m)を合わせた総落差約50mです。
滝の世界では、
「直瀑(ちょくばく)」→ 一気に落ちる滝
「段瀑(だんばく)」→ 複数の滝が連続する滝
という区別があります。
井倉洞の「地軸の滝」は、厳密には「三段の地下瀑布群」であり、観光上は総称して「地軸の滝(落差50m)」と呼んでいることになります。これは日本各地の名瀑でも珍しくありません。
それにしても落差50mは、現在公開されている観光鍾乳洞の内部に存在する滝としては国内最大級です。井倉洞の高度差が90mと大きいのは、この連続した3つの滝がある竪穴の存在によるところが大きいといえます。
地軸の滝の形成には、少なくとも2つの要因が関係していると考えられます。
① 石灰岩の節理(割れ目)
地下水はこれらの弱線を選んで流れ、石灰岩を溶かしながら通路を拡大します。井倉洞が縦方向へ大きく発達したのも、この構造支配を受けているためです。
② 高梁川による基準面低下
高梁川 は阿哲台を深く刻み込み、現在の井倉峡を形成しました。河川が谷を深く削ると、地下水の出口(基準面)も低下します。すると地下河川は、より低い場所へ流路を作り直す必要が生じます。その結果、古い地下水路と新しい地下水路の間に大きな高低差が生まれ、地下滝として残った可能性があります。
地軸という名称

「地軸」とは本来、地球が自転する仮想上の軸を意味します。
井倉洞の地軸の滝は、洞窟の中心部に位置し、天井の暗闇から水が落下し、下方へ向かって巨大な縦方向の空間を形成していることから、「地球内部を貫く一本の軸」を連想させるため、この名が付けられたのでしょうか。正式な命名経緯を記した一次資料が確認できないため、全くの想像でしかありません。
