阿哲台の鍾乳洞を調査
岡山洞穴研究会
日本の鍾乳洞が観光として発展したのは、戦後の高度経済成長期(1950年代〜1960年代)です。この時期、「電気照明(水銀灯など)の設置」という技術革新が起こりました。それまでは松明(たいまつ)やカンテラの明かりを頼りに薄暗い中を歩いていたものが、洞内全体をライトアップできるようになり、安全性が飛躍的に向上しただけでなく、鍾乳石の美しさを演出するエンターテインメント性が加わりました。
新見市の満奇洞や井倉洞が観光洞としてオープンしたのもその頃です。
満奇洞:1957年(昭和32年)10月
井倉洞:1959年(昭和34年)5月
どとらも戦後の高度経済成長期における観光ブームや、照明・歩道のインフラ整備技術の向上を背景に開かれ、年間30万人を超える人が訪れていました。
しかし、当時見つかっている洞窟は、人間が物理的に進入できた場所に過ぎません。厚さ数百メートルに及ぶ石灰岩層の内部には、地表に開口していないものも含め、数多く眠っていると考えられていました。
このことから1970(昭和45)年、岡山県立新見高等学校教諭の柴田晃氏(故人)が中心となって岡山洞穴研究会を結成し、阿哲台の鍾乳洞の研究調査に着手したのです。岡山洞穴研究会は、洞くつ研究と自然保護を目的に、岡山ケイビングクラブを改称してできた団体です。
当時は、現在のような3Dレーザースキャン技術はありません。実際に洞窟へ入り、測量や地質調査を行っていました。暗く険しい地下空間での作業は過酷を極め、その苦労は計り知れないものだったでしょう。その労力と情熱によって、阿哲台の地下世界は少しずつ明らかになっていき、1972(昭和47)年、新見市教育委員会から「阿哲台の鍾乳洞」という冊子にまとまられました。
観光鍾乳洞を楽しむために
観光鍾乳洞は照明や遊歩道が整備されているため、つい「見学施設」のように感じてしまいます。しかし本来は、人間のために造られた場所ではなく、何十万年、あるいは何百万年という時間をかけて自然がつくり上げた空間です。例えば井倉洞の天井から落ちる一滴の水も、私たちには一瞬ですが、鍾乳石にとっては地球の歴史を刻む営みの一部です。一本の鍾乳石が伸びるのに、人の一生より長い時間がかかることもあります。
だから、
鍾乳石に触れない
ゴミを残さない
大声を出さない
指定された道を歩く
といった行動は単なるルールではなく、自然への敬意の表れともいえます。
観光洞

井倉洞
高梁川の側壁に開口する、全長約1,200m(高低差約90m)の鍾乳洞です。地下水が激しく流れ込むことで形成された「吐出型(水が流れ出てくるタイプ)」の洞窟。

満奇洞
つらら石、石筍、カーテン状の鍾乳石、そして「竜宮」と呼ばれる広大な地底湖(プール)など、静かで美しい溶食地形が凝縮されています。
学術・観光探検洞

宇山洞(入洞届必要)
観光地化されていない、限定的な学術・冒険向けの洞窟です。巨大な縦穴(ドリーネ)から地下深くへと続く複雑な構造を持ち、貴重な洞窟生物の生息地です。
