阿哲台の鍾乳洞
阿哲台は日本有数の“地下世界の博物館”
1970年代の調査では、阿哲台には100を超える洞穴が記録されています。さらに、その後の探査成果を含めると、現在は120~150洞前後と考えられています。面積約120㎢ほどの石灰岩台地にこれだけの洞穴が集中していることから、阿哲台は 秋吉台 に次ぐ、日本有数のカルスト・洞窟密集地域と評価されています。
洞窟には一つの名前しかないけれど、見る視点によっていくつもの顔があります。これは、阿哲台の魅力そのもの。地上では一枚のカルスト台地なのに、その地下には、水の入口、地下河川、迷路、そして崩落して天然橋になった場所まで、地球の長い時間が立体的に残されています。鍾乳洞を3つの方向から見れば、阿哲台の地下世界を理解することができます。
阿哲台の地下世界を知る 〜3つの見方〜
水はどこから入る?
地下水の入口と出口
・吸い込み穴(ポノール)
・吐き出し穴(湧出口)
今も水は流れている?
生きている洞窟か、
眠っている洞窟か
・地下河川型(現役)
・地下湖型
・ 化石洞型(昔は流れていた)
どんな形をしている?
洞窟の骨格
・一本型(単純な通路)
・迷路型(網目状)
・ 竪穴型(縦に発達)
・ 天然橋型(崩落後)
鍾乳洞は、雨水が地面にしみこみ、石灰岩と溶かしてできた地下の空間です。
水の流れや地形の違いによっていくつかのタイプに分けられます。
吸い込み穴型(ポノール型)。
代表的な特徴
- 雨水の入り口
- 人がそこから入れるかどうかは関係ない
- 垂直に近い穴も多い

日咩坂鍾乳穴
- 総延長約1700m
- 岡山県最大の鍾乳洞
- 3つの鍾乳洞が複合
宇山洞
- 総延長約1050km
- 高低差105m
- 雨天時には田畑や谷川の水が流入
井倉上の穴
- ドリーネ底に洞口を持つ典型的な吸い込み穴
- 洞口は35mの縦穴
- 井倉洞に続いている
羅生門第一洞
- 羅生門のドリーネの底に開口
- 総延長580m
吐き出し穴型(湧出口型)
代表的な特徴
- 地下を流れた水が地表へ湧き出る場所
- 観光洞はこのタイプが多い
- 人間にとって入りやすいだけで、本質は「地下水の出口」

井倉洞
- 「井倉上の穴」で吸い込まれた水が湧出する出口
- 地軸の滝、音の滝など地下河川景観が発達
- 阿哲台地下水系を理解するうえで重要な洞窟
満奇洞
- 洞口付近には現在ほとんど流水がない
- かつて地下水が流れた「化石洞」に近い性格を持つ
閉塞型(迷路型)
代表的な特徴
- 横に広がり、通路がたくさんある
- 複雑で迷いやすい
- 水が流れていない場所も多い

満奇洞
- 洞内は複雑に枝分かれ低い天井と広いホールが交互に現れる
- 多彩な二次生成物が発達
ごんぼうぞねの穴
- 岡山県下で最大級の規模
- 総延長約1100m
- 立体的構造で複雑
- 豊富な水量
風戸の穴
- 横穴迷路型の代表例
- 地下水の主流路ではなく、割れ目の拡大によって形成された洞窟
地下河川型
代表的な特徴
- 吸い込み穴でもあり、地下河川でもある
- 吐き出し穴でもあり、地下河川でもある
- 吸い込み穴と吐き出し穴をつなぐ水路

井倉洞
- 井倉上の穴から水が流入
- 人口トンネルで洞内の水を排出
日咩坂鍾乳穴
- 直径25m深さ35mの巨大なプールがある
- 流速が大きい
宇山洞
- 洞奥は水没し、現在も成長を続ける地下河川
崩落・天然橋型
代表的な特徴
- 最も丈夫だった部分が残る
- 鍾乳洞の最終段階

羅生門
- もとは吸い込み穴型洞窟
- 長い年月のうちに天井が崩落
- 洞窟の「最終段階」を示す貴重な地形遺産
通り矢
- 天然橋
- 橋上に道路が通っている
阿哲台の鍾乳洞は、雨水を地下へ取り込む「吸い込み穴」、地下水を地表へ戻す「吐き出し穴」、断層に沿って複雑に広がる「迷路型」、そして現在も水が流れ続ける「地下河川型」など、多彩な成り立ちを持っています。これほど多様な洞窟が狭い地域に集中する例は全国でも珍しく、阿哲台は日本有数の“地下世界の博物館”といえます。
阿哲台の鍾乳洞を調査
「岡山洞穴研究会」
日本の鍾乳洞が観光として発展したのは、戦後の高度経済成長期(1950年代〜1960年代)です。この時期、「電気照明(水銀灯など)の設置」という技術革新が起こりました。それまでは松明(たいまつ)やカンテラの明かりを頼りに薄暗い中を歩いていたものが、洞内全体をライトアップできるようになり、安全性が飛躍的に向上しただけでなく、鍾乳石の美しさを演出するエンターテインメント性が加わりました。
新見市の満奇洞や井倉洞が観光洞としてオープンしたのもその頃です。
満奇洞:1957年(昭和32年)10月
井倉洞:1959年(昭和34年)5月
どちらも戦後の高度経済成長期における観光ブームや、照明・歩道のインフラ整備技術の向上を背景に開かれ、年間30万人を超える人が訪れていました。
しかし、当時見つかっている洞窟は、人間が物理的に進入できた場所に過ぎません。厚さ数百メートルに及ぶ石灰岩層の内部には、地表に開口していないものも含め、数多く眠っていると考えられていました。
このことから1970(昭和45)年、岡山県立新見高等学校教諭の柴田晃氏(故人)が中心となって「岡山洞穴研究会」を結成し、阿哲台の鍾乳洞の研究調査に着手したのです。岡山洞穴研究会は、洞くつ研究と自然保護を目的に、岡山ケイビングクラブを改称してできた団体です。
当時は、現在のような3Dレーザースキャン技術はありません。実際に洞窟へ入り、測量や地質調査を行っていました。暗く険しい地下空間での作業は過酷を極め、その苦労は計り知れないものだったでしょう。その労力と情熱によって、阿哲台の地下世界は少しずつ明らかになっていき、1972(昭和47)年、新見市教育委員会から「阿哲台の鍾乳洞」という冊子にまとまられました。
鍾乳洞と河岸段丘の関係
阿哲台の鍾乳洞はいつ頃できたのか。それを高梁川の河岸段丘の調査で明らかにしたのが岡山洞穴研究会です。
河岸段丘とは、川のまわりにできる階段のような地形のことです。昔、川は今より高い場所を流れていました。その後、大地がゆっくり持ち上がったり、海面が下がったりすると、川はさらに深く地面を削りながら低い場所へ流れるようになります。すると、昔の川底だった平らな土地だけが川の両側に取り残され、現在の川より一段高い場所に残ります。これが河岸段丘です。
同一の石灰岩層なら、標高の高いところにある鍾乳洞ほど古い時代にできています。それが分かったのは、河岸段丘の高さと横穴の標高が一致したからです。河岸面が拡大した時期は、河床面が安定しており、それに伴って地下水面も安定し、横穴が成長、縦穴は、河岸崖に相当し成長しました。
河岸段丘と鍾乳洞の関係図(イメージ)
まだ谷が浅い頃

©羅生門ガイド
川が谷を深く削る

©羅生門ガイド
地下河川が空洞になる

©羅生門ガイド
地下水脈がより深い層に移動すると、今まで地下水が流れていたところに大きな洞窟ができ、鍾乳石が形成される。
阿哲台の主な鍾乳洞のできた時代
標高400~500mにある吉備高原面の鍾乳洞「宇山洞」「羅生門第一洞」「日咩坂鍾乳穴」が最も古い時代のものです。従って「羅生門」もその頃に形成された鍾乳洞だと考えられます。

